史実の根拠 - 学術的検証

聖徳太子非実在説:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか

Tags: 聖徳太子, 日本史, 古代史, 歴史修正主義, 学術研究, 厩戸皇子, 法隆寺

はじめに

聖徳太子、あるいは厩戸皇子(うまやどのみこ)は、日本の歴史において非常に重要な人物として広く認識されています。十七条憲法の制定、冠位十二階の導入、遣隋使の派遣など、多くの偉大な事績が伝えられ、日本の国家形成や文化の発展に大きな影響を与えたとされています。

しかし近年、インターネット上などでは、聖徳太子は実在しなかった人物であるとか、あるいは伝えられているような事績は後世の創作であるといった主張が見受けられることがあります。中には、学術的な議論の範囲を超え、特定の史料や証拠を都合よく解釈して、広く受け入れられている歴史認識を覆そうとする主張も見られます。これらの主張に触れた際、どのような情報が信頼できるのか判断に迷うことがあるかもしれません。

この記事では、そのような聖徳太子に関する極端な否定論に対し、学術的な研究がどのように論じているのか、どのような証拠に基づいているのかを分かりやすく解説していきます。学術的な視点から見ると、なぜ聖徳太子の実在やその事績に関する否定論が成り立ちにくいのかを見ていきましょう。

「聖徳太子非実在説」とは

ここで取り上げる「聖徳太子非実在説」とは、単に聖徳太子の実像や事績について様々な学説があるというレベルを超え、「厩戸皇子という人物は完全に架空の存在であり、後世の権力者によって作り上げられた虚構である」、あるいは「実在したとしても、伝統的に知られる彼の事績はすべて別の人物や複数の人物の業績を寄せ集めたものである」といった、極端な主張を指します。

これらの主張は、しばしば記紀(『日本書紀』、『古事記』)の記述の矛盾や編纂時期の偏り、特定の事績に関する直接的な同時代史料の少なさなどを根拠として提示されます。そして、学術的な批判的検証や史料解釈の多様性を背景に、自身の説こそが真実であると主張する傾向が見られます。

学術的根拠による反証

学術研究においては、聖徳太子(厩戸皇子)の実在性やその事績について、古くから多角的な検討が行われてきました。結論から言えば、厩戸皇子という人物が実在したということ、そして彼が当時の政治において重要な役割を果たしたということは、現在の学術界において広く受け入れられている共通認識です。 極端な非実在説は、学術的な主流とは大きく異なります。

なぜ学術研究では、厩戸皇子の実在や事績を認めているのでしょうか。その根拠は、複数の史料や考古学的発見に基づいています。

まず、最も重要な史料の一つとして、法隆寺の『金堂釈迦三尊像光背銘(こんどうしゃかさんぞんぞうこうはいめい)』が挙げられます。これは、釈迦三尊像の光背(仏像の後ろにある光輪のようなもの)に刻まれた銘文です。この銘文には、推古天皇や、天皇の病気からの回復を願った「法興元年(西暦605年)」の出来事とともに、「池辺大宮治天下天皇(推古天皇のこと)及び大命桜井宮聖徳皇(厩戸皇子のこと)」が病気になり、その回復後に仏像を造ったことが記されています。この光背銘は、仏像が造られた時期に近い時代に作られたと考えられており、7世紀前半に「厩戸皇子」という人物が実在し、推古天皇とともに仏像建立に関わるほどの重要な立場にあったことを示す、非常に有力な同時代の証拠とみなされています。

また、法隆寺には『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』という奈良時代に成立した史料があります。ここにも、聖徳太子(上宮王)が法隆寺を建立した経緯などが記されており、太子と法隆寺の関わりを示す古記録として重要視されています。

これらの同時代に近い史料に加えて、『日本書紀』や『古事記』といった正史も、その記述を批判的に検討しつつ、当時の政治体制や外交関係、文化状況などを復元する上で重要な史料です。確かに記紀の記述には編纂上の意図や後世の潤色が含まれている可能性があり、その点を踏まえた上で慎重に扱う必要があります。しかし、学術研究では、これらの史料を単独で鵜呑みにするのではなく、光背銘や『法隆寺伽藍縁起』、さらには同時代の中国の史料(例えば『隋書』など)や、飛鳥寺跡、山田寺跡などの考古学的調査で得られる物証、そして仏教美術史や法制史といった関連分野の研究成果を総合的に突き合わせながら、当時の歴史像を構築しています。

例えば、十七条憲法や冠位十二階といった事績についても、その内容が当時の社会状況や政治思想、中国の制度との関連性などから検討され、全くの創作と断じることには無理があることが示されています。遣隋使についても、『隋書』に日本からの使節に関する記述があり、日本の史料と突き合わせることでその歴史的事実が裏付けられています。

極端な非実在説が依拠する「史料の矛盾」や「証拠の欠如」といった主張は、学術研究においては、史料が成立した背景や目的、編纂された時代による情報量の差などを考慮した上で、丁寧に解釈されています。また、現時点で直接的な証拠が見つかっていなくても、複数の間接的な証拠や当時の常識から見て、その可能性が高いと判断される事柄もあります。学術研究は、特定の結論ありきではなく、利用可能な全ての証拠と論理に基づいて、最も確からしい歴史像を追求しています。

まとめ

聖徳太子(厩戸皇子)は、法隆寺の金堂釈迦三尊像光背銘など、同時代またはそれに近い時期の有力な史料によってその実在が裏付けられており、現在の学術研究においては実在した人物として広く認識されています。また、十七条憲法や冠位十二階、遣隋使派遣といった事績についても、複数の史料や考古学的証拠、関連分野の研究成果を総合的に検討した結果、全くの創作であるという極端な否定論は学術的な根拠に乏しいとされています。

歴史上の人物や出来事について様々な情報に触れる際には、特定の断片的な情報や、学術的な検証を経ていない主張を鵜呑みにするのではなく、複数の信頼できる情報源を参照し、学術的な研究がどのような根拠に基づいて論じているのかを確認することが重要です。学術的な視点こそが、歴史に関する混乱を解消し、確かな知識を得るための羅針盤となるのです。