「『鎖国』は存在しなかった」という主張:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか
はじめに
江戸時代、日本が海外との交流を厳しく制限していた期間を指す言葉として、「鎖国」は広く知られています。多くの方が、この言葉から日本が完全に国を閉ざしていたイメージをお持ちかもしれません。しかし、近年インターネットやSNSなどで、「鎖国は存在しなかった」「鎖国は後世の創作だ」といった主張を見かけることがあるかもしれません。このような主張に触れ、これまでの歴史理解と異なり混乱を感じている方もいらっしゃるかもしれません。
この記事では、「鎖国は存在しなかった」という主張がどのような根拠に基づいているのか、そしてそれに対して学術的な研究がどのように答え、歴史的事実を明らかにしているのかを解説します。学術的な視点から見た「鎖国」の実態を知ることで、歴史に関する様々な情報を判断する上での一助となれば幸いです。
「『鎖国』は存在しなかった」という主張とは
「鎖国は存在しなかった」と主張する人々は、主に以下のような点を根拠として挙げることがあります。
- 「鎖国」という言葉は当時使われていなかった: 「鎖国」という言葉は、江戸時代に生きていた人々が自らの対外政策を指して使っていた言葉ではなく、後世になって作られた概念である。
- 海外との交流は続いていた: 江戸時代においても、長崎(オランダ、中国)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)といった窓口を通じて海外との交流や貿易が継続しており、完全に国を閉ざしていたわけではない。
- 幕府の政策は「鎖国」ではない: 当時の幕府の政策は、特定の相手やルートを制限・管理するものであり、「国を完全に閉ざす」という意味での「鎖国」とは異なる。
これらの点を挙げ、「鎖国」という概念そのものが歴史的な事実を正確に表していない、あるいは虚構である、といった主張がなされることがあります。
学術的根拠による反証
このような「鎖国は存在しなかった」という主張に対して、学術的な歴史研究はどのように答えているのでしょうか。
まず、「鎖国」という言葉そのものが、江戸時代に実際に用いられていた言葉ではない、という点は学術的にも認められています。この言葉は、江戸時代後期の蘭学者である志筑忠雄が、ドイツ人医師ケンペルの著書を翻訳する際に"Sacoku"という訳語を当てたことに由来します。したがって、「鎖国」という言葉が江戸時代の人々の自称ではないというのは事実です。
しかし、学術的な歴史研究における「鎖国」は、単に言葉の由来を指すものではありません。学術研究では、「鎖国」を、江戸幕府が約200年間にわたり維持した特定の対外関係に関する政策体系を指す概念として理解しています。これは、キリスト教の禁教を徹底し、日本人の海外渡航や帰国を禁止するとともに、外国船の来航を厳しく制限し、交流・貿易の窓口を限定された特定の場所(長崎、対馬、薩摩、松前)に限定・管理した一連の措置を指します。
「完全に閉ざしていたわけではない」という点についても、確かに限定された交流窓口が存在したことは学術的にも確認されています。しかし、これは「完全に開かれていた」「自由な交流だった」ということとは全く異なります。長崎におけるオランダや中国との貿易、対馬藩を通じた朝鮮との関係、薩摩藩を通じた琉球との関係、松前藩を通じたアイヌとの関係は、いずれも幕府が厳重な管理下に置き、その規模や内容を制限した上で行われていました。
学術研究は、当時の幕府が出した様々な法令、例えば寛永の海禁令や、長崎奉行、対馬藩主などの記録、そして出島やその他の交流地に関する史料などを詳細に分析しています。これらの史料からは、幕府が明確な意図をもって、日本と外部世界との間の人や物の出入りを厳しく統制しようとしていた様子が読み取れます。これは、単に自然発生的に交流が減ったのではなく、政策として意図的に制限・管理された結果でした。
学術的な視点から見ると、「鎖国」とは「日本が世界から完全に孤立していた」という単純な状態を指すのではなく、「幕府による厳格な対外交流の制限と一元的な管理体制」という政策の実態を捉えるための概念です。限定的な交流が存在したことや、言葉が後世に作られたことをもって、この政策体系そのものが存在しなかったと結論づけるのは、当時の歴史的な状況や幕府の意図、そして史料が示す事実から大きくかけ離れた解釈と言えます。学術研究は、史料に基づき、この政策がどのように形成され、どのように運用され、どのような影響をもたらしたのかを具体的に論証しています。
まとめ
「鎖国は存在しなかった」という主張は、「鎖国」という言葉が後世に作られたことや、限定的な海外交流が存在したことを根拠としています。これらの点は、言葉の由来や交流の一部を捉えれば事実の一面ではあります。
しかし、学術的な歴史研究は、「鎖国」を単なる言葉や交流の有無でなく、江戸幕府が意図的に構築し維持した、厳格な対外交流の制限・管理という政策の実態を指す概念として理解しています。当時の法令や関連史料は、この政策体系が明確な目的をもって実行されていたことを示しています。
したがって、「鎖国は存在しなかった」という主張は、学術的な歴史研究が史料に基づいて明らかにした政策の実態と、その歴史的な文脈を無視した、あるいは誤って解釈したものであると言えます。歴史に関する情報に触れる際は、言葉の表面的な意味合いだけでなく、その背後にある具体的な歴史的事実や、学術的な研究が提示する多角的な視点に基づいて判断することの重要性をご理解いただければと思います。