南京事件における犠牲者数の議論:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか
はじめに
インターネットやSNSでは、過去の歴史的出来事について、広く受け入れられている学術的な見解とは異なる様々な情報が見られます。特に、大きな悲劇を伴う出来事については、その規模や性質を巡って誤った、あるいは根拠の乏しい主張が拡散されることがあります。南京事件における犠牲者数を巡る議論も、そうした例の一つと言えるかもしれません。
「南京事件では数十万人もの犠牲者が出たというのは誇張であり、実際には遥かに少ない、あるいはほとんどいなかった」といった主張に触れたことがある方もいらっしゃるかもしれません。このような主張は、歴史的事実の理解を混乱させ、どのように情報を判断すれば良いのか分からなくなる場合があるかと存じます。
この記事では、南京事件における犠牲者数を巡る特定の歴史修正主義的主張に対し、学術的な研究がどのように向き合い、どのような証拠や論理に基づいているのかを解説します。専門的な視点から、その主張がなぜ学術的には根拠が乏しいとされるのかを分かりやすくお伝えします。
南京事件における犠牲者数を巡る歴史修正主義的主張とは
南京事件は、1937年12月に日本軍が南京を占領した際に発生した、多数の中国人民間人や捕虜の殺害および略奪、放火などを伴う出来事です。この事件における犠牲者数については、当時から様々な数字が論じられてきました。
ここで取り上げる歴史修正主義的な主張は、概ね以下のようなものです。
「南京事件で犠牲になったのは、せいぜい数千人程度の戦闘員や便衣兵(兵士の服装を脱いだ者)に過ぎない。中国側が主張する数十万人という数字は全く根拠がなく、プロパガンダである。大規模な虐殺など実際には起こらなかったか、あるいはその規模は極めて限定的だった。」
このような主張は、事件そのものの存在を否定したり、民間人の大量殺害があったことを否定したりするものが含まれる場合もあります。そして、その根拠として、特定の日本軍関係者の手記の一部や、事件後の南京の状況を捉えた限定的な写真などを引用することがあります。
学術的根拠による反証
上記の歴史修正主義的主張に対し、歴史学や国際法学などの学術研究は、多様な史料に基づいた検証を通じて、その根拠の乏しさや誤りを指摘しています。学術的な議論は、感情論や特定の政治的主張から距離を置き、ひたすら史料が語るところを読み解こうと試みるものです。
具体的に、どのような学術的根拠が上記の主張に反証しているのかを見ていきましょう。
まず、学術研究において犠牲者数の推計に用いられる主要な史料としては、以下のようなものがあります。
- 当時の埋葬記録: 南京事件後、市内で遺体の埋葬にあたった中国の慈善団体(紅卍会や崇善堂など)が作成した埋葬記録は、学術研究において非常に重視される史料です。これらの団体は、人道的な目的から多くの遺体を埋葬しており、その記録は詳細にわたる場合があります。複数の研究者がこれらの埋葬記録を分析した結果、少なくとも数万人規模の遺体が埋葬されたことが示されています。例えば、崇善堂の記録には約11万体、紅卍会の記録には約4万体の埋葬が記録されています。これらの数字は、両団体が確認し埋葬した遺体のみを合計したものであり、全ての犠牲者を網羅しているわけではないと考えられています。
- 当時の日記、手記、書簡: 南京に滞在していた外国人(宣教師、ジャーナリスト、ビジネスマンなど)や、日本軍将兵、中国人住民などが残した日記や手記、書簡、証言なども重要な史料です。これらの史料には、当時の南京市内の惨状、多くの遺体が路上に放置されていた状況、組織的な殺害行為の目撃談などが具体的に記録されています。多数の証言が、民間人や捕虜に対する大規模な殺害行為があったことを示唆しています。
- 戦後に行われた調査や裁判の記録: 極東国際軍事裁判(東京裁判)や南京軍事法廷における証言や証拠なども、史料の一部として学術的に分析されています。ただし、これらの記録は裁判という特定の目的のために集められたものであるため、その取り扱いには史料批判が不可欠です。東京裁判の判決では、犠牲者数は20万人以上と認定されましたが、これは当時の入手可能な情報に基づく推計であり、現在の学術研究では、より多様な史料を用いて様々な角度から検証が続けられています。
- 当時の写真や映像: 当時の南京の状況を捉えた写真や映像も史料ですが、その真偽や撮影状況については厳密な検証が必要です。学術研究では、これらの視覚史料も他の文献史料と照らし合わせながら慎重に分析されます。
学術的な研究は、これらの多様な史料を突き合わせ、批判的に検討することによって、事件の全体像や犠牲者数を推計しようと試みています。その結果、多くの研究者が共有する見解は、犠牲者数を「数千人」とする主張とは大きく異なり、数万人から十数万人規模の中国人民間人および捕虜が不法に殺害された可能性が極めて高いというものです。
例えば、歴史学者の秦郁彦氏は、埋葬記録やその他史料を多角的に検討し、犠牲者数を約4万人と推計しています。また、海外の研究者を含め、数万人規模という推計は広く共有されています。学術的な議論の中では、正確な犠牲者数の特定は困難であるという認識はありますが、それは史料の限界によるものであり、「虐殺がなかった」あるいは「犠牲者が極めて少なかった」ことを意味するわけではありません。むしろ、埋葬記録や多数の証言は、数万人規模の犠牲という悲惨な出来事が確かに起こったことを明確に示していると学術界では考えられています。
「数千人説」や「虐殺否定説」が依拠する証拠(例:特定の日本軍人の日記の一部、特定の場所の限定的な写真など)は、多くの場合、事件全体の状況を捉えていない断片的なものであったり、他の複数の史料と矛盾していたりします。学術研究では、一つの史料だけでなく、可能な限り多くの史料を収集し、それらを批判的に比較検討することで、より確からしい歴史像を構築しようとします。その過程で、「数千人説」のような主張は、利用可能な史料全体から導かれる結論とは整合しないと判断されるのです。
まとめ
南京事件における犠牲者数を巡る特定の歴史修正主義的主張は、「犠牲者は数千人以下だった」「虐殺はなかった」といった内容を含みます。しかし、このような主張は、埋葬記録、当時の外国人や日本人、中国人による多数の証言、日記、戦後の調査記録など、学術研究において利用され、その信頼性が検証された多様な史料によって強く否定されています。
学術研究は、これらの史料を多角的に分析した結果、南京事件において数万人から十数万人規模の民間人や捕虜が不法に殺害された可能性が高いことを一貫して指摘しています。正確な犠牲者数の特定には史料的な限界に伴う困難さが伴いますが、それは悲劇的な出来事そのものが大規模ではなかったことを意味するものではありません。
歴史に関する情報に触れる際には、特定の断片的な情報や、出所が不明確な主張に安易に飛びつくのではなく、どのような史料に基づいているのか、複数の信頼できる情報源や学術的な研究成果と照らし合わせて確認することが重要です。この記事が、南京事件の犠牲者数を巡る議論について、学術的な視点の重要性を理解し、情報を見極める一助となれば幸いです。