「戦前の大日本帝国憲法は民主的だった」という主張:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか
はじめに
インターネットや書籍、SNSなどで、戦前の日本を規定した大日本帝国憲法(明治憲法)について、「実は現代の視点で見ても十分に民主的な憲法だった」「戦後の評価はGHQによって歪められたものだ」といった主張を見かけることがあります。
これらの主張は、大日本帝国憲法が持っていた近代的な側面を捉えているように見えますが、同時にその本質や当時の政治状況に関する歴史的な理解を大きく歪める可能性も持っています。この記事では、このような「大日本帝国憲法民主的だった説」に対し、学術的な研究がどのような証拠や論理に基づいて反論しているのかを解説し、その根拠の弱さを明らかにします。
「戦前の大日本帝国憲法は民主的だった」とは
この主張は概ね以下のような内容を含んでいることが多いようです。
- 大日本帝国憲法は、公布された1889年当時、アジアでも数少ない立憲主義的な憲法であり、世界的に見ても比較的進んだ内容を持っていた。
- 議会(帝国議会)が設置され、国民(臣民)の代表が政治に参加する仕組みがあった。
- 国民(臣民)の権利(信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由など)がある程度保障されていた。
- これらの要素は、現代の民主主義の重要な構成要素であり、大日本帝国憲法は実質的に民主的な憲法であったと評価できる。
- 戦後の日本国憲法や、それに基づく大日本帝国憲法の評価は、第二次世界大戦の敗戦とGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策によって意図的に低くされている。
学術的根拠による反証
歴史学、憲法学、政治史などの分野における長年の学術的な研究成果は、「戦前の大日本帝国憲法が十分に民主的であった」という主張に対して、明確な反論を提示しています。その主な論点は以下の通りです。
1. 主権の所在に関する根本的な違い
現代の民主主義憲法が「国民主権」を原則としているのに対し、大日本帝国憲法は明確に「天皇主権」を採用していました。憲法第4条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と記されています。「統治権ノ総攬」、すなわち国の全ての統治権は天皇に属するとされていました。
学術研究では、この天皇主権こそが、大日本帝国憲法下の政治体制が現代の民主主義とは根本的に異なる点であると指摘されています。確かに、天皇の権力行使には憲法の「条規」による制約があり、議会も存在しましたが、最終的な決定権や広範な大権(憲法改正の発議権、陸海軍の統帥権、条約の締結権、官吏の任免権など)は天皇にありました。これは、国民自身が国家のあり方を最終的に決定するという民主主義の基本理念とは相容れない構造です。
2. 国民(臣民)の権利保障の限界
大日本帝国憲法下でも、臣民の権利(自由権など)は条文上明記されていました。しかし、多くの権利条項には「法律ノ範囲内ニ於テ」「法律ニ依ルノ外」といった「法律の留保」が付されていました。これは、これらの権利が絶対的なものではなく、法律によって制限される可能性があることを意味します。
学術的には、この「法律の留保」が、政府や議会(法律を制定するのは議会ですが、政府提案の法律が多く、特に戦前末期には国民の権利を制限する法律が多数制定されました)による権利制限を容易にし、現代の憲法が保障するような強固な基本的人権の保障とは程遠いものであったと評価されています。臣民の権利は、国家からの恩恵として与えられた側面が強く、国民主権に基づく現代の「固有の権利」とは位置づけが異なりました。
3. 権力分立の不徹底と軍部の独立性
大日本帝国憲法にも、立法(帝国議会)、行政(内閣)、司法(裁判所)の権力分立の形式はありましたが、完全に徹底されてはいませんでした。特に、軍事に関する天皇の統帥権は、国務に関する内閣の輔弼(助言)を受けず、議会の統制も及ばない「統帥権の独立」として運用されました。
この統帥権の独立は、学術的に、戦前の日本において軍部が政治に対して強い影響力を持つ要因の一つとなったと分析されています。内閣が議会に対して責任を負う議院内閣制の要素はありましたが、軍部大臣現役武官制(陸軍大臣・海軍大臣は現役の将官である必要があった制度)なども相まって、内閣の組織や存立が軍部の意向に左右される構造が生まれ、文民統制が機能しにくい体制でした。このような権力構造は、民主主義の重要な要素である文民統制や、権力間の均衡・抑制といった観点から見ると、不十分なものであったと学術的に評価されています。
4. 議会の権限の限界
帝国議会は、衆議院と貴族院の二院制でした。衆議院議員は選挙によって選ばれ、普通選挙が導入されるなど、国民の政治参加という側面はありました。しかし、議会の権限には限界がありました。
学術研究では、予算審議権が限定的であったこと(政府が前年度予算を執行できる条項があった)や、法律の制定には政府の強いイニシアチブがあったこと、天皇の緊急勅令が議会と同等またはそれ以上の効力を持つ場合があったことなどが指摘されています。また、内閣は議会に対して明確な連帯責任を負うわけではなく、天皇に対して責任を負いました。これらの点から、帝国議会は現代の議会のような、国民の代表機関として政府を厳しくチェックし、国政を主導するほどの強い権限は持っていなかったと理解されています。
まとめ
「戦前の大日本帝国憲法は民主的だった」という主張は、憲法に議会や臣民の権利に関する条項があったという形式的な側面に注目するものです。しかし、歴史学や憲法学における学術的な研究は、大日本帝国憲法の本質が天皇主権にあり、臣民の権利に「法律の留保」が付されていたこと、権力分立が不徹底で特に軍部の独立性が高かったこと、議会の権限に限界があったことなどを、当時の史料や法制度の分析に基づいて明確に示しています。
これらの学術的な知見は、大日本帝国憲法下の体制が、現代の国民主権、基本的人権の保障、文民統制、議会主権といった民主主義の主要な要素を欠いていたことを示しています。大日本帝国憲法は、当時の日本の社会や政治状況の中で制定されたものであり、近代的な要素を取り入れつつも、その構造は現代の民主主義とは異なるものでした。歴史に関する情報に触れる際には、このような学術的な根拠に基づいた多角的な視点から判断することが重要です。