「満州事変は自衛のためだった」という主張:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか
はじめに
インターネット上や書籍などで、「満州事変は日本の自衛のためにやむなく起きた出来事だった」という主張を見かけることがあります。これは、当時の日本の関東軍が、中国軍の攻撃や挑発を受けたため、自身の安全や日本の権益を守るために必要な措置として軍事行動を起こした、とする考え方です。このような主張は、歴史に関する一般的な理解とは異なるため、情報に触れた方が混乱される場合もあるかもしれません。
この記事では、「満州事変は自衛のためだった」という主張が、学術的な研究においてどのように扱われ、どのような証拠や論証に基づいて否定されているのかを、分かりやすく解説いたします。歴史に関する情報を判断する上で、学術的な視点がなぜ重要なのか、その一助となれば幸いです。
「満州事変は自衛のためだった」という主張とは
この主張は、概ね以下のような内容を含んでいます。
- 1931年9月18日に柳条湖で発生した鉄道爆破事件(柳条湖事件)は、中国側の犯行である。
- この事件を含む、それ以前からの中国側による日本人や日本の権益に対する挑発・攻撃行為が繰り返されていた。
- 日本の関東軍は、これらの脅威から満州における日本の居留民や権益(特に南満州鉄道)を守るため、やむを得ず軍事的な反撃、すなわち自衛行動を開始した。
- したがって、満州事変は日本の侵略行為ではなく、正当な自衛権の行使であった。
この主張は、当時の日本政府や軍部が国内外に向けて行った説明と共通する部分が多く見られます。
学術的根拠による反証
学術的な歴史研究においては、「満州事変は自衛のためだった」という主張は、史料に基づかない、あるいは史料を都合よく解釈したものであるとして、現在ではほぼ全面的に否定されています。多くの研究者が共有する結論は、満州事変が日本の関東軍によって周到に計画・実行された、満州占領のための「謀略(偽計を用いた策略)」であったというものです。
この結論に至る学術的な根拠は多岐にわたりますが、主なものをいくつかご紹介します。
1. 柳条湖事件そのものが関東軍の謀略であったこと
満州事変の直接の発端とされる柳条湖事件、すなわち南満州鉄道の線路爆破は、学術的な研究では中国側の犯行ではなく、関東軍自身によるものであることが確立されています。
- 爆破の規模と被害: 爆破された線路はごくわずかな損傷しか受けず、すぐに修復されて日本の列車運行にほとんど影響しませんでした。これは、中国軍による本格的な破壊工作としてはあまりにも小規模であり、その後の関東軍による大規模な軍事行動の理由としては不自然です。
- 事変直後の証言と調査: 事件直後に現場を検証した日本軍の将校の中にも、爆薬の量や爆破のされ方から中国軍の犯行であることに疑念を抱いた者がいたことが、当時の報告書や日記などから明らかになっています。また、事変後、事態を調査するために派遣された国際連盟のリットン調査団も、綿密な調査の結果、柳条湖事件は中国軍によるものとする日本の主張を退け、日本側の計画的な行動であった可能性が高いと結論づけました。報告書では、日本の軍事行動は自衛の範囲を明らかに超えていると指摘されています。
- 関東軍内部の証拠: 事変後に作成された関東軍関係者の手記や証言録、あるいは戦後に公開された資料などから、柳条湖事件が関東軍の板垣征四郎や石原莞爾といった参謀たちが主導して計画・実行した謀略であったことが裏付けられています。彼らが事変をいかに計画し、実行したかを示す具体的な記述が存在します。
これらの証拠は、柳条湖事件が中国側の偶発的な攻撃ではなく、日本の軍部が満州を軍事的に制圧するための口実として利用した計画的な事件であったことを強く示唆しています。
2. 事変以前からの関東軍の計画性
「自衛のため」という主張は、突発的な攻撃に対する反応であることを前提としています。しかし、学術研究は、関東軍が柳条湖事件の数年前から、満州を武力で占領するための様々な計画を立案し、準備を進めていたことを多くの史料に基づいて明らかにしています。
- 作戦計画文書: 関東軍内部で作成された詳細な対中国軍事計画や、満州をどのように占領・統治するかといった構想を示す文書が多数発見されています。これらの文書は、柳条湖事件が起きる前から、関東軍が満州での大規模な軍事行動を視野に入れていたことを示しています。
- 謀略の準備: 柳条湖事件のような偽装工作を実行するための具体的な準備が進められていたことを示す証拠もあります。例えば、爆薬の調達や、事件発生時に直ちに実行するための部隊の配置などが、事変以前から行われていたことが分かっています。
これらの事前の計画や準備の証拠は、満州事変が中国側の挑発に対する偶発的な自衛行動ではなく、明確な意図と準備に基づいた侵略計画であったことを物語っています。
3. 事変後の行動の分析
満州事変勃発後、関東軍は極めて短期間のうちに満州の主要都市を次々と占領し、戦線を急速に拡大しました。この行動は、一般的な「自衛」の範囲をはるかに超えるものでした。
- 国際連盟等の調停拒否: 国際社会や中国政府からの停戦や交渉の申し入れに対して、関東軍はこれを拒否し、軍事行動を続けました。もし自衛が目的であれば、相手の攻撃が止まった時点で軍事行動を停止するか、外交交渉による解決を図るのが通常です。しかし、関東軍はそうせず、一方的に占領地域を広げました。
- 「満州国」の建国: 関東軍は占領後、わずか数ヶ月で日本の傀儡国家である「満州国」を樹立しました。これは、単なる自衛行動の後に取るべき措置ではなく、占領地を恒久的に支配下に置くための明確な政治的意図に基づいた行動です。
これらの事変後の行動は、満州事変が日本の安全保障を目的とした自衛行動ではなく、満州を日本の勢力圏に組み込むことを目的とした計画的な侵略であったことを強く示しています。
まとめ
「満州事変は自衛のためだった」という主張は、一見すると日本の立場を正当化するかのように聞こえるかもしれません。しかし、学術的な歴史研究は、柳条湖事件が関東軍による謀略であったこと、事変以前から満州占領のための計画が進められていたこと、そして事変後の関東軍の行動が自衛の範囲を大きく逸脱していることなどを、具体的な史料に基づき明らかにしています。
これらの学術的な知見は、「満州事変は自衛のためだった」とする主張が、歴史的な事実や証拠に照らして成り立たないことを明確に示しています。歴史に関する情報に触れる際には、表面的な主張に惑わされず、どのような根拠に基づいているのか、特に学術的な研究がどのような結論を出しているのかを確認することが重要です。学術的な視点を持つことが、複雑な歴史の出来事を正しく理解し、情報に混乱することなく判断するための確かな道標となるでしょう。