史実の根拠 - 学術的検証

「巨大古墳は渡来人が作った」という主張:学術研究は歴史修正主義的主張にどう答えるか

Tags: 古墳, 古墳時代, 渡来人, 考古学, 日本史

はじめに

日本列島には、仁徳天皇陵古墳(大山古墳)に代表されるような、世界にも類を見ない巨大な古墳が数多く存在します。これらの巨大な墳墓が、どのようにして、誰の手によって築かれたのかは、歴史上の大きな謎として多くの人々を惹きつけてきました。その壮大さゆえに、当時の日本列島に果たしてそのような技術力や社会組織力があったのか、という疑問が生じることもあります。

こうした背景から、「これほど巨大な古墳は、当時の日本列島にいた人々だけでは作れず、朝鮮半島などから渡来した人々が主導的な役割を果たした、あるいは彼らによってのみ可能だったのではないか」という主張がインターネット上などで見られることがあります。

このような主張は、古墳時代の社会や文化、そして日本列島の古代国家形成に関する理解と深く関わってくるため、多くの誤解や混乱を生む可能性があります。この記事では、こうした「巨大古墳は渡来人が作った」という主張に対して、学術的な研究がどのような証拠や論理に基づいて検証し、その根拠の乏しさをどのように示しているのかを解説していきます。

「巨大古墳は渡来人が作った」という主張とは

この主張は、主に古墳時代の、特に5世紀頃に集中して築造された巨大な前方後円墳などの規模や技術レベルに注目し、当時の日本列島社会の技術や労働力動員力では不可能であったと考え、その築造の主体や技術の源泉を、朝鮮半島などから渡来した人々(渡来系の人々)に求めるものです。

具体的には、 * 巨大な墳丘を正確な設計に基づいて構築する土木技術 * 大量の土砂を運び、盛り上げるための組織力や道具 * 特定の形状(前方後円墳など)や付属施設(周濠、陪塚など)の知識 * 石室構築技術

といった要素が、当時の日本列島には存在せず、先進技術を持った渡来人が持ち込んだ、あるいは彼らが中心となって築造を指導した、とする見解です。

学術的根拠による反証

では、このような主張に対し、学術的な研究はどのように答えているのでしょうか。考古学や歴史学の分野では、長年の発掘調査や遺物の分析、文献史料の研究などに基づき、巨大古墳の築造は渡来人によって「のみ」行われた、あるいは彼らが「すべて」を主導した、とする見方には根拠がないことが示されています。

その主な論点は以下の通りです。

1. 古墳出現以前からの日本列島における墓制の発展

学術的な研究は、古墳が突然現れたものではなく、弥生時代を通じて日本列島内で発展してきた墓制(墳丘墓や方形周溝墓など)を基盤として成立したことを明らかにしています。例えば、岡山県の楯築墳丘墓(やよいじだいのたてつきふんきゅうぼ)のように、古墳時代に先行する時期から大規模な墳丘を持つ墓が存在し、その後の前方後円墳の成立につながる要素が見られます。これは、巨大な墳丘を築く技術や思想の萌芽が、すでに日本列島内に存在していたことを示唆しています。古墳時代に入ると、これらの技術が発展し、より大規模で規格化された形になっていったと理解されています。

2. 古墳の築造体制と社会構造

巨大古墳の築造には、非常に多くの労働力と、それを組織し指揮する強大な権力が必要不可欠です。考古学的な証拠や、当時の社会構造を推測させる出土品・遺跡(集落跡、祭祀跡など)の分析からは、古墳時代には地域をまとめる首長層が強力なリーダーシップを発揮し、大規模な土木工事を動員できる社会システムが確立されていたことが分かっています。このような社会組織や労働力動員能力は、国内の政治権力(後のヤマト王権など)の発展と密接に関わっており、「渡来人だけ」で動員できるような規模ではないと考えられています。

3. 出土品に見る文化の融合と変容

古墳から出土する埴輪や副葬品(装身具、武器、農工具など)の分析も重要な手がかりとなります。これらの遺物には、日本列島固有の要素に加え、朝鮮半島や中国大陸からもたらされた技術やデザインの影響が見られます。特に金属器の生産技術や須恵器のような焼き物の技術には、渡来人が果たした貢献が大きいことが認められています。しかし、これらの技術や文化要素は、そのまま受け入れられただけでなく、日本列島内の文化や社会構造に合わせて独自に変化・融合しています。例えば、前方後円墳という特定の形状自体は、日本列島で独自に発展したものであると考えられており、同時期の朝鮮半島の墓制とは大きく異なります。これは、単なる技術の輸入や模倣ではなく、日本列島内の人々が主体的に文化を創造・発展させたプロセスを示しています。

4. 文献史料からの示唆

『古事記』や『日本書紀』といった古代の文献史料には、古墳時代後期以降の王権や豪族の動向、大規模な土木工事に関する記述が見られます。これらの史料に書かれている内容をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、当時の社会が大規模な公共事業を実行する能力を持ち、王権や有力豪族がその中心を担っていたことを示唆する傍証となりえます。

まとめ

「巨大古墳は渡来人が作った」という主張は、巨大古墳の技術的・規模的な側面だけを見て、当時の日本列島社会の能力を過小評価し、外来要素のみに還元しようとする見方です。

しかし、学術的な研究によって明らかにされているのは、巨大古墳の築造が、

という複雑な歴史のプロセスです。

したがって、巨大古墳の築造において渡来人が技術的な貢献を果たした可能性は否定できませんし、実際に鉄器生産や陶器生産など、特定の分野で彼らが重要な役割を担ったことは学術的にも広く認められています。しかし、「巨大古墳は渡来人が作った」と一元的に結論づけることは、多くの学術的証拠と論理に照らして成り立たないと言えます。学術的には、巨大古墳は日本列島内の社会構造、技術発展、そして外来文化の受容・変容といった複数の要因が複合的に作用して生み出された、当時の日本列島社会の力を象徴する建造物として理解されています。

歴史に関する様々な情報に触れる際には、単一の原因や単純な説明に飛びつくのではなく、多様な証拠に基づいた学術的な研究が示す複雑なプロセスや多角的な視点を考慮することが、より正確な理解につながる重要な姿勢であると言えるでしょう。